95年2月3日夜、東京・中野にある自宅で、報道陣を前に衆院選出馬を表明したガッツ石松は、カメラマンの要望にこたえて、往年のファイティングポーズを決めながら、こう言って意欲を語った。
ガッツが当時、自民党幹事長の森喜朗氏から衆院選立候補の打診を受けたのは、前年のことだった。
この年の6月、当時、野に下っていた自民党では結党以来初めて、衆院選の候補者公募を決定。
方法は自薦と他薦の二通りで、ガッツは都議会議長ら9人により、東京9区の自民公認候補として衆院選に出馬することになったのである。
当選前から「大臣」の目標を掲げるガッツの姿に、底知れぬ闘争本能を感じたものだ。
しかし、出馬宣言後、練馬区内に自宅兼事務所を構えて周辺を駆け回るものの、結局、解散・衆院選までには1年8カ月の時間を要する「生殺し状態」が続いてしまう。
だが10月20日、総選挙の即日開票が行われる中、テレビ画面に映し出された開票速報に色めき立つ陣営に響いたのは「えっ、何着だ?2着?3着か」というガッツ自身の声だった。
最後の借用書を処理した瞬間、体調を崩し、救急車で病院に緊急搬送されたというから、その精神的苦悩はいかばかりだったか。
当選すれば天国、落選すれば地獄と言われる選挙戦。
ガッツもまた、そんな壮絶な地獄を味わったひとりだったのである、とアサ芸プラスが報じた。
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